<TOP PAGE<Feature articles

今月の特集




 画家ヨハネス・フェルメールは1632年にデン・ハーグ近郊の古都デルフトで生まれ、1675年に亡くなるまで生涯をこの地で過ごしました。19世紀に専門家によって見直されるまで、歴史の塵の中に埋もれていたフェルメールですが、今日ではオランダを代表する絵画の巨匠として、その名を不動のものにしています。端的に「静謐な空間」と表現されるその作品は、完璧な静けさと平和な空気に満ち、優しい光が全体を覆っています。またさりげない日常のひとこまを描きつつも、どこかミステリアスで、崇高なイメージを伝えています。精神的な癒しを求める多くの現代人に訴えかけるためか、近年フェルメール人気は日本を含め、世界中で高まっています。 

 真贋に疑問の残るものも含め、たった36点しかその作品が残されていないため、フェルメールは寡作の画家と言われています。 オランダ国内で見られる彼の作品は、アムステルダムの国立博物館が所蔵する「小路」「恋文」「手紙を読む女」「牛乳を注ぐ女」と、デン・ハーグのマウリッツハウス美術館の所蔵する「真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)」「デルフトの眺望」「ディアナとニンフたち」の7点です。

 フェルメールが生涯を過ごしたデルフトの町には、フェルメールの足跡を訪ねることが出来ます。17世紀の風情を残した町デルフトで、フェルメールに出会う徒歩の旅に出てみてはいかがでしょう? 以下に主な見所をご紹介します。

フェルメール生誕の地(Voldersgracht 25番地)
 フェルメールの両親は「Flying Fox(空飛ぶ狐)」という宿屋を経営していました。163210月フェルメールはこの宿屋で生まれたと記録されています。フェルメールの父親は、絹やベルベットを加工する職人で、副業として宿屋経営を行い、また聖ルーカスというギルドにアートー・ディーラーとして登録していました。 後者の副業のおかげで、「空飛ぶ狐」にはデルフト在住の多くの画家が出入りし、小さなヨハネスに影響を与えたことでしょう。
聖ルーカス・ギルドハウス
           (Voldersgracht 21番地)
 1653年ヨハネス・フェルメールは、聖ルーカス・ギルドに登録されました。 デルフト焼の職人など多くの芸術家が登録されていたこのギルドは、芸術家の利益を守ると共に、その作品の品質を高め、デルフト産の芸術・工芸作品の名声を高めることに一役買いました。 1662年と1671年の2度に渡り、フェルメールはギルドの会議のメンバーに選ばれています。建物は1876年に学校の敷地に加えるため、解体されました。
「小路」の家並1Voldersgracht 19-20番地)
 1993年の新しい研究の結果、「小路」はフェルメールの家から前述のギルドハウスの方向を描いたものではないかと推測されています。 1920番地に今も残る家には「小路」に描かれている部分と一致する箇所があります。
メヘレン・イン(Markt 52/54
 フェルメールの父親は、ヨハネス・フェルメールが9歳のときに「メヘレン・イン」という宿屋を買いました。 ここにもデルフト在住の芸術家が出入りし、フェルメールに大きな影響を与えたといわれています。 経済的に恵まれなかったフェルメールは、1653年にカタリーナと結婚した後も、1660年頃、義理の母親の家に移り住むまで、両親の元で暮らしていました。メヘレン・インは1885年に道路拡張のため壊され、現在は近くの家に記念の石が残されています。
新教会(Markt広場)
 フェルメールが洗礼を受けた教会です。 1415世紀にかけて建設された新教会には、フェルメールの祖父や両親が埋葬されたと記録されています。オランダ建国の祖オラニエ公ウィレムとその子孫達が眠る場所として、大変由緒ある教会です。 
「小路」の家並2Nieuwe Langendijk 24-26番地)
 1982年の地理学的、歴史的研究の結果、この通りにある3つの建物が作品「小路」に密接なかかわりがありそうだと、専門家は発表しています。「小路」が描かれたと推定されるもうひとつの場所です。
フェルメールの家(Oude LangendijkJozefstraatの交差する東側の角)
 フェルメールが義理の母親マリア・ティンスの家にいつ移り住んだのかはわかっていませんが、少なくとも1660年の12月にはそこに住んでいたという記録が残っています。フェルメールの妻は、夭折した4人を含めて、なんと15人の子供を産みましたが、この大所帯は、フェルメールを経済的に困窮させたので、マリア・ティンスはフェルメールを大いに助けました。いずれにしても一家の財政状況は厳しいものでした。
デルフト市庁舎(Markt広場)
 165345日にヨハネス・フェルメールはカタリーナ・ボルネスと、この由緒ある市庁舎で、結婚式を挙げました。 オランダでは現在も、結婚式は市庁舎で、市長さんの立会いの下行うのが一般的です。カタリーナの母親はカトリック教徒だったため、プロテスタント教徒のフェルメールとの結婚をあまりよく思っていませんでしたが、反対はしませんでした。同年の420日には、デルフトの南にあるスキプルイデンという小さなカトリック教徒の村でささやかな披露宴が行われました。
「デルフトの眺望」を描いたとされる場所(Hooikade)
 フェルメールの作品で最も有名な「デルフトの眺望」は、デルフトの町を南西の方角から描き出したものです。 左奥に旧教会の尖塔、その手前(絵画の中央近く)にスキーダム門、右側に張り出したロッテルダム門、その奥には現在武器博物館となっている建物の赤い屋根、そして武器博物館の右に新教会の白っぽい尖塔が描かれています。
 風景画にもフェルメール独特の静けさと平和な空気が満ち溢れていますが、実際のところ当時この辺りは、多くの船と商品たちが行き来する喧騒に彩られたエリアでした。 フェルメールが心の目で描いた風景といえるかもしれません。
 目前に流れているスキー運河は、ロッテルダムやデルフトの港町として栄えたデルフスハーフェン(デルフト港)とデルフトの町を繋いでいました。 ロッテルダム門、スキーダム門ともに1830年代に姿を消しため、この辺りからの眺望で、当時の面影を伝えているのは2つの教会の尖塔のみです。
プリンセンホフ(St.Agathaplein
 プリンセンホフ市立博物館は16世紀まで聖アガタ修道院の建物でした。16世紀末に建物はホラント州連合のものになり、15847月には、ここでオラニエ公ウィレムが襲撃され、殺されました。 当時の銃痕が残っています。フェルメールの時代、17世紀にはにこの建物は様々な目的で使われました。フェルメールの師匠と言われているレオナエルト・ブラメルが大ホールの天井画を描いています。 フェルメールの初期の作品の題材は、ブラメルの絵画の題材に非常に類似しています。フェルメールがこの先輩画家と親交があり、影響を受けたのは間違いないでしょう。
旧教会(Heiilige Geestkerkhof
 フェルメールは16751216日に心臓発作で倒れ亡くなりました。1672年よりフランスとの戦争が始まり、芸術どころではなくなったオランダで、フェルメールは自分の作品を売るチャンスに恵まれず、また子沢山だったため、生活費を捻出する苦労とプレッシャーに負け、43歳という若さでこの世を去ったのではないだろうかと、研究者は憶測しています。フェルメールは傾いた尖塔のあるこの旧教会に埋葬されたと記録に残っています。フェルメールの墓石は未だ見つかっていませんが、1975年のフェルメール没後300周年に際して置かれた、記念の石碑で彼の短い人生とその傑出した才能を偲ぶことが出来ます。


オランダ政府観光局